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執筆者の写真kumada rie

「矮小化」とは? 自分の感情を否定し続ける心理とその影響

先日の講演会で、久しぶりに「矮小化」の反応が自分の中に現れました。「矮小化」という言葉を初めて聞く方もいるかもしれませんが、簡単に言えば、自分の傷を「こんなこと、大したことじゃない」と扱う反応のことです。この「矮小化」について、ブログで一度書いてみようと思いました。


花

矮小化は、心理学で「否認」という言葉で説明されることもあります。防衛反応の一種であり、心の痛みから自分を守るための自然な反応だと言われています。トラウマケアの大家クラウディア・ブラック氏の著書では、以下のように説明されています


「否認というのは防衛のメカニズムで、心の痛みから自分を守るための自然な反応です。衝撃に耐えられないと感じたり、起こったことが恥ずかしくてたまらないとき、人はしばしば否認 という手段に頼ります。否認が存在するとき、人はそのことへの感情を大したものでないかの ように扱ったり、切り捨てたり、理屈をつけたりします。」


「否認のもとで育ったということは、今も否認におちいりやすいということ―――それも無意識のうちに。私たちは自分が感じたことや受けとった物事を、大したことではないと考えてしまいます。自分で自分を傷つけるような行動に、何かの理屈をつけます。今も私たちは、自分は 怒っていないし、がっかりしてなんていないし、傷ついてもいないと言い張って、本当の気持 ちを隠しているかもしれません。実は大事なことなのに、こんなことぐらい、と自分に言い聞かせてしまうのです。実際にはしょっちゅう起こっているのに、たまにつらい思いをするぐらい我慢しなければ、と自分を諭してしまうのです。私たちは真実を語っていません。何年もの間、感情を切り捨てたり、大したことはないふりをしたり、理屈をつけたりすることばかり学んできたので、おとなになってもそれがふつうのことになってしまっているのです。」

「子どもを生きればおとなになれる~インナーアダルトの育て方」クラウディアブラック著、アスク・ヒューマン・ケア発行より抜粋


私自身も長い間、自分の傷付きを「大したことじゃない」と思い込んできました。特に、暴力や虐待と聞くと、家を追い出される、食事を与えられない、体中にひどいあざがある、といったイメージを思い浮かべていたので、自分の経験はそれとは違うと考えていたのです。


私は、自分の部屋があり、美味しいご飯を食べさせてもらい、新しい服を買ってもらい、習い事にも通わせてもらった環境にいました。だから自分は「恵まれている」。そう信じ込むことで、傷付いている自分を否定し続けていたのです。


しかし、その矮小化の結果として、私は摂食障害、自傷行為、処方薬への依存などを起こしました。「トラウマの否認は、薬物依存や嗜癖行動につながります」と、クラウディア・ブラック氏も指摘しています(「私の苦しみを誰も知らない~トラウマと依存症からのリカバリーガイド」クラウディアブラック著、金剛出版より)。


「私は恵まれている。有り難い環境で育ってきた。文句なんて言ってはいけない」そう思えば思うほど、私はこんなことを誰にも言えない、こんなワガママを思うのは私ぐらいだと孤独を深め、依存症が酷くなりました。


カウンセリングや自助グループに通い始めた頃も、自分が傷付いていたことを認めるのは本当に難しかったです。「こんな恵まれた環境で育ったのに傷付くなんて、ただのわがままじゃないのか」と、自分を責め続けていました。


でも、自分の心と向き合い続けるうちに、少しずつこう思えるようになりました。「環境が恵まれていたからといって、心が傷付かないわけではない」と。親に対して「ありがとう」と思う気持ちと「嫌だった」と思う気持ちは、どちらも否定せずに同時に存在していいのだ、と。


私の父はいつも怖いわけじゃありませんでした。遊んでくれたこと、可愛がってくれたこともあります。だから、私は苦しかったのです。いつも怖い人であれば、完全に嫌いになることもできたかもしれませんが、そうじゃないから苦しかったのです。「ありがとう」や「好きだ」と思う気持ちもあるから、苦しかったのです。「好き」と「嫌い」が心の中で両立していていいと思えるようになって、楽になっていったように思えます。


つぼみ

矮小化はただの個人の問題ではなく、暴力を振るう人が相手に「お前が悪いからこうしている」と言葉で否定することによっても引き起こされると感じています。その結果、被害を受けた人は「自分が悪いのかな」「こんなこと、大したことじゃないよね」と思い込むようになる。これは非常に巧妙な仕組みです。


だからこそ、矮小化や否認に気づくのは難しく、時間がかかります。私自身も長い時間をかけて、自分の感情を認められるようになりました。


それでも、「暴力」「虐待」という言葉はあまりにも強く、私はかなり長い間「私はそうじゃない」と思っていたと思います。それでも、そういう部分はあったよね、と少しずつ認めていくことで、回復に向かっていったと思います。


ただし、矮小化や否認は心を守るための防衛反応であり、無理に「やめよう」とする必要はないと考えています。それが必要なくなるタイミングが来たとき、少しずつ自分と向き合う準備をする。それで十分だと思います。


もし、今の生活や人間関係で行き詰まりを感じたり、生きづらさが増してしまったなら、自分の心をそっと見つめてみることも、一つかもしれません。


このブログが、誰かが自分の感情を大切にするきっかけとなれば嬉しいです。










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